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棺の扉が開く。 視覚情報が切り替わり、外部を『視』ていた『眼』が、本来の物に戻る。 脇腹の接続具を介し、潮のように退いていく、蒼。 貧血に似た――覚え慣れた、眩暈。操縦棺との繋がりが絶たれる、僅かなひととき。 座席に身を沈めたまま、数度、両肩を揺らす。血流が戻り、息苦しさが解けるまでの、十数秒。 ……漸くの、身動ぎ。 身を起こすに、先ず、頭を浮かせる。 何時もの帰還時と同じ、はずのそれが……妙に、重い。 ――気のせいだ。 暗示のように断じて、壁面の窪みへ片腕を伸ば――届かない。 ……霞む、左。 義眼の右だけで、距離を測る。 再度、いつものように、腕を伸ばす。 ……虚空の、手応え。 舌を打つ。 開いた扉の隙間から聴こえる、幾つかの声。 聴き慣れた。聴きたかった、声。 ――三度目。今度こそは。 背面、身を繋ぐ管もそのままに、体躯を持ち上げた。 先んじて、おもてに出ていた幾つかの人影が、ひとところに集まっている。 集まっているのは、判る。 多分。抱き合って、互いの無事を確かめている……ようだ。 ……霞む、視界。 右側で――焦点が、上手く、合わない。 ふたりが振り向いて、何か言っている。 ……音が、遠い。 消えていく。 暗い。 ……残影が、暗がりに、また―― 重い音。 いつも通りに立っていたはずの長身は、糸が切れたように、床へ崩れた。 一斉、床を蹴る複数の足音。 駆け寄る足元、針金のように弧を描いて散った、銀灰色。 紛れるように、点々と落ちる、蒼い水。 無暗に重い体躯を抱き起こし、繋がったままの配線を背から引き抜く、最中。 ……握り拳半分にも満たない、ちっぽけな胃の何処から、そんなに湧いてくるのか。 痙攣じみた震えと共、何度も咳き込んでは、蒼水混じりの胃液を吐き零した。 意識はない。呼び掛けても。揺さぶっても。 返ってくるのは、嘔吐と、可笑しな音の喘鳴だけだった。 無暗に重い体躯。 それは、意識が無いとなれば、輪を掛けて。 三人掛かりでも担架で運ぶには難儀して、結局、荷物用の台車に積み乗せた。 駆け足移動の間に、常備のアンプル類を探り出し、幾つか投与……しようとした、手が止まる。 針を打とうと緩めた首元。蒼白の筈の肌は、鬱血にどす黒く染まり。 抉れたように、穿たれた、孔。 ――何本。何十本。何百本。 空きコンテナ一杯、空のカートリッジが溢れる程に。 細い針が、貫いて来た、孔。 ……動揺に震える手で。まだ白い、首根と鎖骨の隙間に、針を打った。 間も無く、辿り着いた部屋。 急ぎ寝台へ引き上げ、数人掛かりで着衣を剥ぐ。 足元、拘束具を髣髴とする靴の隙間からは、染み出る蒼水。 ……無理に、圧し留めていたのだろう。 靴紐と留め具を緩めた途端、革靴の隙間という隙間から蒼が零れ散り、賑やかな水音を立てて弾けた。 応急処置に、殊更、きつく巻かれていた包帯も、最早役を成さずに。 真っ蒼に染まった布を解いた内側、合成皮膚は縫い目の其処彼処、裂けて捲れ。 片足は中程、指の隙間から甲までが縦に割れ、金属の骨が剥き出しになり。 片足は、五指の幾つかが、あっけなくころりと外れ落ちた。 ――『どれ』が効いたのかは、定かでないが。 携帯していたアンプル類を一通り打ち込んでから、四半刻程で嘔吐は収まった。 同成分の点滴を、切らさぬよう投与しつつ。 脚部は傷口をとにかく塞ぎ、失血を少しでも抑える為に、釣り上げておく。 ……落ち着いて漸くはたと気づく。明らか、以前よりも高い『体温』。 零下ですら差し支えない冷血が、並みの人間が触れて冷たくないと感じる温度は、どれ程の高熱に相当するのか。 さりとて、解熱剤が効くか否か定かではなく。間に合わせに、氷嚢を首筋と脇腹に当て置いた。 ……この上、まだ、はらわたの何処かも痛めているらしく。 下腹部からの流血対処に、数時間に一度、腰回りの吸水布とコルセットを取り換えねばならなかった。 寝顔など、何度も見て来たはずなのに。 此れほど、酷く憔悴した顔は、記憶にない。 ――悪夢(ゆめ)ばかり視るからか、眠りが浅く。 普段は、少し揺さぶれば、直ぐに眼を覚ましたのに。 ……体躯の調整機に繋がれている間は、逆に、何をしても醒める事はなかったが。 そんなものは例外中の例外で。そも、機材の動力を落とせば、瞬く間に意識を取り戻した。 それが、今は。 ただ、横になっているだけだというのに。 どんなに呼んでも、触れても。 疲弊に睫毛が僅かに震えるだけで。瞼が持ち上がる気配は、微塵もない。 平気そうだった。 いつも、平気そうだった。 ――初めて、頭を撫でた時だけは、少し、萎びていたが。 彼女が墜ちた時も。 ……彼が、物言わず還った時も。 駄目になりそうな髪を撫でて。 無言で、其処に居た。傍に居た。 いつも通り。 いつも通りに―― ――めを、あけてよ。 わたし、まだ。 あなたに、『ただいま』って、いってない。 |