CANARY
 銀の星屑降る晩に、窓辺の月は茜色。
 グラスに映してその手に収めた月の分身を、ぐらりぐらりと弄ぶ。
 夜気よりも、なお。
 澄み渡るほどに冴え切った翠色が、もう一つの月の分身を作り出す。
 凍る、凍る。
 何もかも。
 硝子珠の如き翠の左眼に射止められた物は、ひんやりとした音もなき凍えた世界へと。
 月すらも。
 凍って墜ちて、弾けて消える。
 ――まるで、そのように見えた。
 真にそのようにしてしまうのではないかと。何もかも、凍て付かせてしまうのではないかと。
 それほどまでに、翠色の輝きは冷たく。
 その翠色を有する、かの人の面(おもて)も、また……
「相変らずよなァ」
 まとわりつく夜気を払い払い、否、まるでそうでもせねば成らぬかのように。氷の主とは似て非なる翠色の持ち主が、一つ零して現れた。
 辛気臭いと続けながら、茜の月よりもなお一層紅い衣を纏った者が、窓辺の彼に歩みを寄せる。
 近付く程に遠ざかる。
 そんな闇の彼(ひと)は、変わらずそこに在(い)て、ただ冴えた輝きのみで出迎えた。
 もはや気に留めるほどの事も無いと言うのか。月光を受けてなお鮮やかな赤を纏う来客は、昏(くら)く佇む闇の彼の向かいで足を組む。
「愛想の無ぇ野郎だな」
 何度目だか知れぬ。そのように零すのは。
 それは――互いに。
「……ふん」
 落ちた呟きは、窓辺から部屋中を満たす闇の彼の夜気と共に、床へと沈んでゆく。
 かくして闇の彼は、その鬼気の解放と共に、皆の知る城主へと戻る。
 向かいで勝手知ったるとばかりに酒を煽る副城主に、一瞥をくれて。
 それっきり極寒に星の瞬き踊る窓辺を見据え、微動もせずに何か用かと低く尋ねる。
「また嫁に殴られたか」
「違ぇ」
 続けざまの問いに間髪入れず。しかし、先の問いには応えず。ただ珍しく神妙な表情(かお)をして、副城主は瓶底の酒をグラスに注ぐ。
 飲み干して、ふと漏らした。
「――唄を忘れた、金糸雀(かなりや)は」
 城下で煌く零下の吹雪(かぜ)は、茜色の月の下、編まれる金糸の帯の如く。
「夜を忘れた夜族は――」
 否。
 それが、それである事を忘れたそれは。
「――……」
 発するべき言葉は喉の奥で掻き消えた。
 音にすら、できず。
 音にすら、成らず。
 焦げ付くような鬼気が。
 焼け爛れるかのような冷気が。
 微動も、許さぬ。
 切り裂くような、無音の中。
 向かいの闇から、同じ音(こえ)が云った。


『唄を忘れた金糸雀は
 後の山に棄てましょか
 いえ いえ それはなりませぬ』

『唄を忘れた金糸雀は
 背戸の小薮に埋めましょか
 いえ いえ それはなりませぬ』

『唄を忘れた金糸雀は
 柳の鞭でぶちましょか
 いえ いえ それはかわいそう』


 らしくもない、と。
 忘れた唄は。
 忘れてしまった唄ならば。


『唄を忘れた金糸雀は
 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄をおもいだす』


 ――おもいだせ。

 しなやかに纏わりつく戦慄。
 絡め取られた肢体を隅々にまで埋め尽くす、凍える程に焼ける常温。
 無意識に。
 張り出した乱杭歯で沈黙を食い千切り、軋んだ喉から言葉を紡ぐ。
 お前は、変わらぬのだな。
 ――相変らず、だ。
 己よりも尚一層、動かぬ闇の彼。
 月を落す冴えた翠色は蕭然と、未だ外ばかり視る。
 ぐらりと揺れた月の分身は、それっきりグラスから逃げ出した。
 深々と積もる鬼気が、冷気が、沈黙が。幾重もの層になって床に降り積もる。
 すいと巡って左眼の呉れた一瞥に、ぴしりと空気の裂ける音。
 闇が、幻のように揺らぐ。
「貴様は、嫁にでも殴られてろ」
 城主、が云った。



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